未だ道半ばの復興を着実に進める

2011年3月11日 14時46分 東日本大震災

JAMにおいても、組合員9名、ご家族48名の尊い命が失われました。また、15単組が甚大な被害を受けました。亡くなられた方々に心から哀悼の意を申し上げるともに、未だ不自由な生活を余儀なくされている方々に心よりお見舞い申し上げます。

またJAMは翌12日に「JAM東日本大震災・災害対策本部」を立ち上げ被災地の支援を行いました。JAMから連合救済ボランティアに参加したのは20クール308人、集められた義援金は1億3千万円に上りました。その他、食料品やタオル、紙おむつ、ランドセルなど多くの救援物資が全国各地より届けられました。力強いご支援を頂いた組合員の皆様に改めて感謝を申し上げます。

あの日から10年の月日が過ぎていきました。

決して忘れない。今、日本人の誰もが、改めて、そう誓っていると思います。しかし、被災地には多くの石碑が残されています。あの日が来るまで、私たちは私たちの先祖が残した教訓を忘れていました。


『被害地住民ハ永ク此災禍ヲ追憶シ

宜シク向後ヲ警戒スルノ覺悟アルヲ要ス』


『凡そ人類には健忘性がある

後昆此の碑を見聞する者深く警誡して忘却せざるよう

余の切に願ふ所である』


『此処より下に 家を建てるな』


2度と忘れないために、3月11日はあの日のことを思い出し、家族や友人たちともに、あの日のことを語り合うべきではないかと思います。あの日、すべての日本人が何かを感じたはずです。その時の思いを共有し伝え続けることで、あの日の教訓が忘れ去られることなく、日本人の心に刻まれるのではないかと思います。

そして、私たちはあの日から今日に至る10年間で、被災地で何が起きたのか知らなければなりません。福島第一原子力発電所はあの日のおぞましい姿をとどめたまま、存在し続けており、復興は未だに道半ばと言わざるを得ません。震災の記憶を呼び覚ますことは非常につらいことですが、決して目をそらすことなく、真実を知ることが尊い犠牲となられた方々への弔いになるのではないかと思います。

1755年11月1日、大航海時代に7つの海を征したポルトガルを大地震が襲い掛かりました。首都リスボンには最大30mもの高さの津波や、6日間続いた火災の影響で、死者90,000人、当時のリスボン市内の85%ともいわれる建物倒壊の被害を出したと伝えられています。このリスボン大地震と東日本大震災は多くの共通点を持っています。まず経済的には両国が貿易立国であり、世界有数の経済大国であったこと。さらに、リスボン大地震が地震と津波と火災の複合型災害であったのに対して、東日本大震災が地震と津波と原子力発電所事故の複合型災害であったこと。そして、地震発生前から衰退の兆しがあり、地震により衰退が加速していったことです。もう一つ、リスボンにおいても過去に3万人の犠牲者を出した地震を経験していながらそれを忘れていました。リスボン大地震は、国家が復興に責任を負った最初の地震であり、近代への扉を開けた災害といわれています。国王に全権を任されたポンバルは、見事な手腕を発揮し復興に全精力を捧げます。それでもポルトガルは衰退を免れることはできませんでした。リスボン大地震から学べることは、政治が力強いリーダーシップを発揮し、国家のビジョンを明確に示し、着実に復興を進めることです。

今後想定される首都圏直下型地震、南海トラフ沖地震への備えを今一度確認しましょう。同じ悲劇を繰り返さないために…(安河内賢弘)

                              

参考 

いわて震災津波アーカイブ~希望~

リスボン地震とその文明史的意義の考察 (公財)ひょうご震災記念21世紀研究機構研究調査本部

No Members,No JAM ~組合員なくしてJAMなし~

ものづくり産業労働組合 JAM 組織変革PTの活動記録と情報発信

0コメント

  • 1000 / 1000